よくわかる日本の城
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Canon IXY 650
出かける前にタイヤの空気圧を見ておこうとバイクカバーをめくったら、まぁ~見事に砂ぼこりまみれ(花粉&黄砂まみれ)。バケツとウエスを取ってきて、まずは拭き掃除から。風が強い日が続くとこれだからイヤになります。
本日の気温は16℃。「春の陽気に誘われて」は、ツーリングの場合「春の陽気に騙されて」となりがちなので、ゴールデンウィークまではウインタージャケットと防風ジーンズのスタイルで。本日は八百津の山奥、見行山までふらっと。去年の春に、デッシーが「ツバメが巣を作っていた」と言っていた場所に行ってみましたが、残念ながらまだ早かったようです。デッシーに「いないよ」とメールしたら、「iPhoneの写真を確認したところ去年の6月でしたぁ~」と。麓ではすでに賑やかに飛んでいるのですが、ツバメにとってもここはまだ肌寒いのかな。
福島桜もまだ。ツバメと桜のタイミングが難しいのですが、改めて出直します。
気になっていた喜多方のささまさむねを入手。天味さんもインスタにアップしていたので、楽しみ倍増の一本です。
実は年末からずっと上喜元13の入荷を狙っているのですが、「夏前くらいかなぁ~」とのことでしたのでこれまた出直しです。
帰り道。美濃金山城に寄ってみました。クルマ&山城歩きスタイルで近々訪れようと思っていますが、せっかくなので、三浦先生絶賛の大堀切だけは見ておきました。駐車場まで上がると山の斜面には満開の桜が。なかなか眺めもいいので、大勢の花見客が楽しんでいました。
誰もいない小さな川の土手に咲く桜並木が、実は一番きれいかもしれません。
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「フムフム、岡山が47万石で…、備中松山城は5万石となっ!!」
てな具合にいちおう参考にはなるものの、そもそも「これはいったいナニ??」
まず最初に受け取ったのが、備中松山城のチケット売り場。入場券とともに渡されたこのトレーディングカードに(城がロボット??)と理解できないまま、お次が岡山城。調べてみたら、あの一世を風靡したオールドSNSのミクシーが、現在はマイナーな城ロボットアニメ制作を手がけていて、そのアニメとのコラボで現在絶賛(?)配布中なのがこの城郭合体オシロボットカード…らしいです。
なんと4月1日からは広島城も配布を開始したということで、現在、全国16城がこのトレーディングカードに参加。まぁ~、確かにマンホールカードとか、ダムカードとか、巷ではいろんなトレカが流行ってますけどねぇ~。でも、マンホールやダムは合体しないし、変身もしませんよねぇ~。なんで城がロボットに変身しているのか、よくわからないまま配られてもねぇ~。たとえばこれが、なかなか見ることのできない、ドローンで上空から撮影した城の写真カード…とかだったらぜひ集めてみたいと思いますけど、推しとお城をかけてオシロボット??チビッコが喜ぶのかな?
個人的には全く興味なしの御城印も、城めぐりのお楽しみアイテムとしては定着しつつあるようですし、流行りますでしょうか、トレカも?
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倉敷のホテルを出発し、ガソリン補給しつつ東へ走って訪れたのは岡山城。備中松山城ほどの熱量は無いのですが、倉敷からも近いしせっかくだし、ここでスルーしたらたぶん死ぬまで行かないだろうと思い、立ち寄っとくことにしました。ちなみに、城めぐり熱量を下げてしまう原因は鉄筋コンクリート造りだから…ではなく、歴代城主のなかに宇喜多や池田と名を連ねて、「戦国時代の有名な裏切り者と云えば…」のあの小早川秀秋がいるからです。
まずはその前に腹ごしらえを。【岡山 ご当地グルメ】で検索してみても「おぉ~!!コレ、聞いたことあるぞ」というモノがまったく出てこないのですが、かろうじて気になったのがデミかつ丼。デミグラスソースをかけたカツ丼ということでしょうか。どうせなら発祥の店で食べようと岡山市内の『野村』に行きましたが、開店時刻ジャストに到着してみると、店の前には誰もいません。(意外と知られていないんだな…)なんて思いながら呑気に店内に入ったら、実はもうすでに満席寸前、なんとか残りひとつのテーブルに座ることができました。注文したのは、それぞれが小さめの丼で提供される孫バージョンのデミかつとノーマル卵とじのコラボ。小鉢ではなくそれなりに大きめのどんぶりでしたが、それにしてもやや高額です。そして肝心のお味のほうは、ふぅ~~ん…??なのでした。大半が県外からの観光客だと思うのですが、高揚感あふれる「おいしいね!」なんて会話も聞こえてこないし、みな黙々と食べて店を出ていきます。静まり返った店内がちょっと不気味でした。まぁ~、ご当地モノ話のネタとして食べたと思えば…ですね。それでも食べ終えて表に出てみたら、店の前にはなかなかの行列が出来ていました。
烏城(金烏城)
その黒い外観から烏城(うじょう)、または金箔の装飾が黒色に映えるさまから、金烏城(きんうじょう)とも呼ばれる平城、岡山城。見た目は同じブラックシルエットの松本城よりも豪華で煌びやかですが、あちらは今も懸命に保守修繕されている国宝の現存天守。コンクリート天守と比べてはなりませぬ。
さて。内堀を目安橋で渡って本丸へと進んでいくと、いきなり正面には巨大な石垣が。おかげでテンションが上がります。
石垣群
不明門(あかずのもん)石垣の下敷きとなっている巨岩や、発掘調査によって地中から現れた石垣も有名ですし、また、完成度が異なる隅角部の算木積や、野面積から打込接へと工法が変わっていく宇喜多~小早川~池田時代の変遷なども面白い石垣群です。
天守の礎石
コンクリート復元工事の際に、レイアウトを保ったまま本段内で移設された礎石。名古屋城の礎石の上ではこどもがケンケンパーして遊んでいましたが、ここの礎石も、何人もの観光客が弁当を食べる椅子&テーブルの代わりに使っていました。『全国コンクリート天守あるある』なのかもしれません。
不等辺五角形
岡山城で有名なのが、石垣の鈍角(しのぎずみ)。山の形をそのまま利用する山城ではよく見られる形ですが、なぜ平城で石垣を直角にせずこのような形にしたのか、理由はわかりませんでした。
不明門
跡地のままの鉄門(くろがねもん)から昭和に復元された不明門(あかずのもん)へと進むと、正面には現存らしき六十一雁木上門(ろくじゅういちがんぎうえもん)と天守礎石が。そして、本段左手を見上げれば天守です。
廊下門と月見櫓
1966年コンクリート復元の廊下門。上に載せられた廊下は城主専用の通路となっていて、この門の内側部分が表書院や泉水のあった中庭、中の段です。
中段の隅櫓であり、廊下門の脇にある、現存の重要文化財月見櫓。外側には石落としを備えた唐破風があり、櫓へと続く土塀を内側から見ると、外からはわかりにくい狭間が礎石との境界部分にいくつも設けられています。
六十一雁木上門
天守台石垣の鈍角を眺めながら川沿いを下の段の方向に歩いていくと、本段の礎石近くにあった六十一雁木上門を見ることができます。この階段が昔は61段もあった…ということらしいのですが、門自体は1966年に木造復元されたものです。
天守と塩蔵(付櫓)
1966年にコンクリート再建された天守。空襲を受けたときの焼け跡が残る部分と再建時に新たに積まれた部分で、天守台の石垣の色がくっきりと異なっていることがよくわかります。こちらから見上げると付櫓の塩蔵も黒色なので、天守の黒くてナローな鈍角シルエットが強調されてなかなかセクシーです。
日本の城と、日本の桜
ここでソロの外国人観光客が、私よりも熱心にシャッターを切っていました。もっとも彼は自撮り棒&スマホのスタイルでしたから、リアルタイムで母国にSNS発信しているのかも。家族も一緒に楽しめるし安心でしょうね。
庭園には興味が湧かないので、すぐ隣りにある有名な後楽園はパス。また、重要文化財西之丸西手櫓は本丸西方400mの市街地にあるらしいのですが、その存在自体をこのとき知らなかったので、街ブラ中に立ち寄ることはできませんでした。
城めぐりを終えたら、土産物を買うために岡山市内を徒歩でウロウロ。その途中で出会ったのは、黄色い路面電車と、黄色の旗が目印『キムラヤ』のバナナクリームロールパン。これは「どぉーせよくありがちなパサパサの菓子パンでしょ?」と侮っていたのに、とってもおいしかったです。
土産メモ
ウチの猫にも土産を。そして日本三大まんじゅうは、もちろん柏屋薄皮饅頭の圧勝です。
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平日の早朝にもかかわらずSAやPAが賑わう高速道路をひた走り、岡山県の山奥にあって「日本一高い山城」と謳われる備中松山城に行っときました。ややこしいことに四国にも松山城があり、秀吉の水攻めで有名な備中高松城ともついつい混同しがちな、しかし現存12天守であり、そのなかで唯一の山城です。
大袈裟なことを言えば生まれたときから岐阜金華山や小牧山を眺めているせいか、山城というのは山の上に天守だけが建っているポツンと一軒家的なモノだとばかり思い込んでいましたから、こうして改めて勉強しながら明知城・小牧山城・苗木城・岩村城と巡ってみて、とんでもない勘違いをしていたなと思い知りました。でもこれって、中部地方で生まれ育った城めぐり初心者あるあるなのかもしれません。もっとも、名古屋近郊の城が全て鉄筋コンクリート製天守だからといって、さすがに「えっ!?城ってコンクリートで出来てたんぢゃないの??」と言う人はいないと思いますけど。そんなこんなで本日の現存天守の山城めぐりは、とても貴重な体験なのです。
鞴峠~太鼓の丸
標高487mの臥牛山(がぎゅうざん)山腹に築かれた城郭に登ります。クルマや単車は城見橋公園に停めてシャトルバスで鞴(ふいご)峠まで、もしくは直接鞴峠の駐車場まで。基本的に週末はシャトルバス利用ですが、平日でも来場者が多ければ狭い鞴峠の駐車場はたちまち満車です。と言うことで、私がでかけた平日も鞴峠までクルマで行く予定だったのですが、混雑するということでシャトルバスでの往復となりました。ちなみに鞴峠までの山道はすれ違いが困難なクネクネ狭路ですから、素直にシャトルバスに乗り換えたほうが無難だなと思いました。ここからの山歩きはちょっとしんどいのですが、岩村城ほどのひどい息切れはありません。
大手門
登っていくとまず目の前に現れるのは、こちらにせまってくるような威圧感の大手門。高さ10m以上の巨大な岩の上に築かれた石垣を見上げて、思わず「おぉ~~!!」と声をあげてしまいました。
三の平櫓東土塀
重要文化財三の平櫓東土塀(さんのひらやぐらひがしどべい)は、厩曲輪の土塀とともに一部現存のもの。繋げた復元部分との違いは、壁の段差で確認することができます。
石垣群
とにかく圧巻なのが、岩盤を取り込むように積まれた野面積や打込接の石垣。見上げては「すごっ!」、見下ろしては「すげぇ~!」の繰り返しでした。敵が急峻な山道を攻め登ってきても、高い位置にある土塀の狭間から丸見えだったことでしょう。
天 守
二の丸に上がると、正面に復元された五の平櫓と、二層二階で高さ11mの重要文化財天守が現れます。入場料500円は、石段を上がった本丸南御門で。
急勾配で直角に折り曲げた踊り場が、天守内最後の防御となる階段。足を滑らせて落ちないよう、角部に滑り止め加工が施されています。外からは見えにくく中からはよく見えるという連子窓(武者窓)や、天守内ではなかなか見かけない大広間の囲炉裏、一段高く設けられた城主専用ルーム装束の間(しょうぞくのま)も、この城の特徴です。
神棚が最上階の屋根裏高く祀られている城はよく見かけますが、この城は狭い階段を登った先の二階正面に、この御社壇。かなり珍しい眺めです。
現存12天守のなかで最もコンパクトサイズと言われる天守の外観をグルリと見て回れば、黒い縦板張りの白漆喰壁や屋根と一体化した唐破風や石落としなどを見上げることができます。後ろには二重櫓がひかえています。
二重櫓と本丸東御門・腕木御門
天守の裏手へと進んでいくと、「これで崩れてこないわけ??」と心配したくなる、重要文化財二重櫓が現れます。基本、下から見上げるのが山城の風景ですが、ここ後曲輪の上に立って、真横に奥行きを眺める二重櫓と天守の山城ビューは必見です。
猫城主さんじゅーろー
休憩中とのことで残念ながらお目通りは叶いませんでしたが、城主のさんじゅーろー殿。元々は城に住みついた迷い猫で、元の飼い主に改めて別れを告げたのち、正式に城主となられたそうです。かわいい顔してます。
来てよかったです、備中松山城。あまりにも夢中になりすぎて、大手門の高い石垣の上で後ずさりしながら写真を撮っていたら危うく転落するところでした。滝めぐりもそうなんですけど、山城もカメラのモニターにばかり気を取られていると「落ちたら死ぬ」恐れがあります。
現存12天守は、残り四城(丸岡・丸亀・伊予松山・宇和島)。行けそうなら今年中に…と考えています。また、日本三大山城は残すところ奈良の高取城だけですが、こちらは…たぶん行かないッス。
下山後の昼メシに
麓に下りて、すぐ近くで昼メシを。ナポリピッツァ専門店『澪』。とってもおいしいピザですが、大きくて腹パンでした。
さて、腹ごしらえを済ませたら、岡山県の山奥から瀬戸内の海沿いまで走ります。2年ぶりのアソコです。
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穴観音
苗木遠山史料館でその存在を知った、『穴観音』。岩の下に見える扉は、ミニチュアではありません。なにしろ岩が巨大すぎるのです。一見の価値アリです。
苗木遠山史料館
前回は、一番手前の駐車場にW800を停め林間コースで城跡へと歩きましたが、今回はクルマで奥の駐車場まで進み、史料館にも立ち寄ってみました。一階入り口の正面には、在りし日の苗木城が見て取れる模型が展示されています。「あの狭い岩山に、こんなにも櫓や屋敷が建てられていたのか!?」と驚いてしまいました。やるな、一万石!!これは必見です。この模型以外の展示物は撮影禁止なのが残念ですが、個人的には、高齢の村人が遠山の殿様から直々に盃を勧められている様子を描いた一枚の絵にハマりまして。列席者それぞれの発言が、漫画のように会話調で書かれていて、これがクスクスッと笑えるんです。入館料は330円(JAF会員は270円)です。
溜め池
大矢倉の裏手、北門の近くにある天然の岩と石垣で丁寧に囲われた立派な溜め池。山城だけに大切にする気持ちはわかるけど、三浦先生曰く、「石垣で囲んだ贅沢な溜め池は日本中の城郭に三か所しかない」「しかも丁寧な切込接で横矢掛かりの形状まで持たせている」「これはよほど石垣遊びが好きな殿様だ」と。笑ってしまいます。
埋 門
ごく限られた全国の名城でのみ見られるという、巨石を積み上げた埋門(うずみもん)。真ん中がひび割れているし、訪れたこどもがこの上で飛び跳ねて遊んでいるでしょうし、劣化を考えるとこの下をくぐるのはちょっと怖いです。これだけを見ると縄文時代の遺跡みたいですが、史料館の模型を確認すると、塀で囲われた建物群の一部として取り込んでいる様子がよくわかります。
大矢倉
三の丸にある大矢倉。あまりにも立派過ぎることから、武家諸法度第6条で禁じられた新規の城郭建築を疑われないよう、「これは大きな鳩小屋でこざいます!」と幕府に申告したという逸話があり、また、本丸から見下ろした現代の風景が「まるで日本のマチュピチュだ」と、なかなか人気の遺構です。
苗木城天守台
京都の清水寺ふう懸造(かけづくり)の木造天守台は、天然の岩場に足場を削り出してその上に柱を載せています。この天守台も含め、このせいぜい20畳程度しかない狭い本丸に千畳敷と称する御殿まで建てていたという、苗木城の殿様。大矢倉しかり、溜め池しかり、埋門しかり、そしてこの本丸もしかり、単に見栄っ張りだったのか、意地っ張りだったのか、はたまた全国の有名な城郭・神社仏閣に憧れがすぎたのか。そんな一万石殿様のこだわりっぷりも、麓の史料館にある模型の見どころのひとつです。
馬洗岩
この上に馬を引き出し、水に見立てた米粒で洗っているように見せて、取り囲んだ眼下の敵に水不足を悟られまいとした…らしい、巨石。これだけでも見る価値があります。元々ここにあったものなのか、ここに移動させたものなのか、斜面に載った様子はなんとも不安定な角度で、地震が来たら木曽川に向かって落下していくんじゃないかと心配なくらいです。
二の丸御殿
小屋が建てられていたのかな??程度にしか見えないこの二の丸跡地ですが、礎石の上はもちろん、木製の土台で石垣から外側へと突き出して、さらに床面積を広げた御殿だったそうです。
風吹門(大手門)
大矢倉の脇に建てられていた風吹門は、1996年に移築先の寺から戻されて史料館一階に展示されています。この櫓門だけでも復元してほしいものです。
苗木城遠景
眼下の木曽川から天守跡までの標高差は、約170m。背景の恵那山の存在が効いていますね。時間ごと、季節ごとに変化していく風景を眺めては写真を撮ってみたいという気にさせる山城跡です。やっぱ、名古屋城よりもうんとテンション上がりますわ、ココ。
次は美濃金山城に行っとくか、それとも未登城の現存12天守にするべきか…。いずれにせよ、真夏はムリなので今のうちに。
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標高717m、高低差は180m。日本三大山城のひとつに数えられる岩村城の別名は、霧ヶ城。ツーリング中の通りすがりにいつも眺めていたのは『女城主』の幟旗でしたが、天守もないらしいし、(女の城主?なんぢゃ、そりぁ??)と興味もそそられず、なので今回が初登城です。ちなみに女城主の逸話を調べてみたら、武田と織田に挟まれてしまった山城の悲哀と逆さ磔という無残な最期でした。ついでに、あの森 蘭丸が、鬼武蔵と呼ばれ小牧・長久手の戦いで戦死した森 長可(もり ながよし)の弟だということを、今回のお勉強中に初めて知りました。
太鼓櫓と三重櫓跡
藩主の御殿があったとされる現・歴史資料館駐車場の立派な太鼓櫓と、畳橋が架けられていた三重櫓用に高く積まれた石垣。この三重櫓が、岩村城における実質的な天守だったそうです。
石 畳
大手道の藤坂から始まり、本丸までずっと急な坂道が続きます。斜めに敷かれていてとても登りにくく滑りやすい石畳を、息が切れる思いで休み休み登りましたが、国土交通省のサイトにあるPDF資料によれば、この石畳は昭和59年頃に復元されたものです。
石垣の見本市
野面積から切込接まで、時代ごとの異なる積み方が見られる石垣。水を含んでいるのか、内側の土が凍結したせいなのか、膨らんで崩落しそうな箇所もありました。反りの上端が、通常武者返しと呼ばれる垂直よりも、さらに反り返っているのが岩村城の特徴です。山城ならではの鈍角(しのぎかく)も、石垣の上に乗って足元で確かめることができます。
土岐門
土岐門(ときもん)の名の由来には諸説あるようですが、ここに設置されていた城門自体は、地元の徳祥寺山門として今も現存しているらしいので、ぜひ戻してほしいですね。門の内側に進むと、180度ターンのコンパクトな曲輪(くるわ)。ここから本丸まではほんの300mほどらしいのですが、とにかくしんどいです。すでにここまででも息が切れてゼェーゼェーしています。
八幡曲輪と霧ヶ井戸
曲輪(くるわ)の高台にある八幡神社は、跡地のみ。霧ヶ井戸は「敵襲の際、秘蔵の蛇の骨をこの井戸に投げ込むと深い霧がたちどころに山城を覆った」という伝説の井戸。実際、岩村城ゆかりのどこぞで大切に保管されていた蛇の骨が発見されたのだとか。ところで岐阜名水50選認定とありますが、コレ、飲めますかね?
本丸の六段壁
岩村城の逸話として有名なのが女城主だとしたら、岩村城ならではの特徴として有名なのが六段壁。山の上にある本丸の石垣が崩れてくるので、その下部を支えの石垣で覆い始めたら、繰り返しているうちにとうとう六段にもなってしまった石垣です。この石垣の正面にあった月見櫓と六段壁の間には渡り廊下が架けられていたそうなので、あえて大掛かりな補修をせず、ちょこちょこと手当てしていたのかもしれません。上から覗きこむと、犬走りにあたる部分がまるで山奥の急峻地にある棚田のようです。
埋 門
三浦先生が「実に不思議だ」と解説されていた、岩村城の埋門(うずみもん)。二の丸から入り本丸に向かって何度も直角に折れ曲がる構造で、上部は櫓が覆っていたらしく、しかも門がその前後に四か所もあることから、「内部は暗渠のように真っ暗だったはずだがその理由はわからない」と。
本 丸
苗木城ほどの眺望はありませんが、ここもなかなかの絶景です。本丸に天守はなく、代わりにいくつかの櫓が建てられていたようです。本丸にも、矢穴らしきものが残る大量の石垣。これだけの石を、いったいどこから運んできたのでしょうか。
そして、隅っこには昇竜の井戸。こんな場所で水が湧くの??と思いますが、まずはこの井戸を掘ってみてからの縄張だったと思われます。
帰りの石畳
本丸から下る帰り道。滑りやすく傾斜のついた石畳のせいで、下りもしんどいです。腰と膝にきます。プチウォーキングのつもりだったのに、かなりの疲労度でした。資料館脇の道路をさらに奥へと進むと、本丸直近の出丸広場駐車場までクルマで行くことが可能ですから、「とにかく歩きたくない」という人はここを利用するのもアリかもしれません。
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3月22日付の中日新聞に、犬山の瑞泉寺へ移築されていた城門が420年ぶりに美濃金山城に戻されたという記事がありましたが、この記事のなかで広島大の三浦正幸教授が、「これは日本に現存する最古の城門だ」と太鼓判を押していました。さらに、同じ紙面に並んで掲載された記事で、静岡大の小和田哲男名誉教授が犬山で講演し、美濃金山城から犬山城への天守移築、いわゆる金山越しについて、「1537年の犬山城築城時にあの天守が建てられたというのは間違い。この頃にあのような高層建築は存在しない」からと、金山越し支持を表明したとありました。
実は春先くらいから、そろそろ本腰を入れて城めぐりをやってみようと真剣に猛勉強しているのですが、日本の城郭について解説するYouTubeや書籍でお世話になっているのが偶然にもこのおふたりでしたので、記事を見たときに「おぉ~!城の師匠の談話がふたり並んでる!!」と、なんだかうれしくなりました。『名城の石垣図鑑』は、その小和田先生の著書。とてもわかりやすく書かれていて、石垣についてきちんと学べます。廃城・取り壊し・空襲・火災などで現存しないことも多い天守や御殿、櫓などとは違い、昔のままの姿で保存されている石垣や土塁。地震で崩落した熊本城が、今後何十年かかってでも石垣を元通りに積み直すと頑張っているのもわかるような気がします。いろいろと知識を得たうえで改めて城跡をめぐってみると、とても面白いです。近ごろでは近所の公園の石垣にも目を奪われるようになってしまいました。
2006年頃に購入した2枚組DVDも、久しぶりに引っ張り出して勉強しています。映像サイズとか画質とか、かなり古くさい感じは否めないのですが、ありがたいことに、火災で消失する前の首里城や地震で崩落する前の熊本城の姿が撮影されていますから、今となってはこれはこれで貴重な映像集なのでした。
学校の勉強はイヤイヤだったし、仕事の勉強もシブシブでしたが、趣味の勉強はウキウキですわ。誰でもそうでしょ??
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空襲で天守ともども焼けてしまった徳川御三家・尾張藩主の住居兼政庁、名古屋城の本丸御殿。2018年、忠実復元で公開が始まりました。誤解されがちですが、例外を除いてお殿様が寝起きする場所は本丸や二の丸に築かれた御殿。天守は、いくさ櫓の発展形で戦闘用の建物です。でも、名古屋城の本丸御殿では実際に藩主が寝起きしていたのはほんのわずかな期間で、あとはもっぱら将軍が江戸からやって来た際のお泊り所として使われ、日頃は無人の建物を藩士が厳重警備&お掃除していたようです。
入り口手前で係員から見学の際の注意事項を聞き、並んでいた順にいざ入ってみると、「御殿は上を見よう!」ですね。欄間や飾り金具、天井絵に施された『豪勢な美』がスゴイ。この御殿の再建に携わった職人さんたちは、さぞかし楽しかったことでしょう。前回訪れた城が狭小な岩場の上の苗木城跡でした。同じ大名とはいえ、尾張徳川と美濃一万石の格の違いは圧倒的すぎます。「絢爛豪華」という言葉の意味を知ることのできる建物でした(苗木城も眺めは最高でしたけど)。全国的にも、本丸の御殿が現存もしくは再建されている城は数少なく貴重な存在。これで天守が木造復元だったらもう、無敵なのに…名古屋城ったら。
テレビ等で御殿完成のニュースを観ていてもなかなか行く気にならなかったのですが、7年も経ってからようやく堪能しました。週末ともなれば今でも大行列でしょう。観覧料500円でこの御殿見学もできるのは、ちょいとサービスし過ぎではないかと。観覧料を2,000円くらいにして、問題となっている天守復元用木材の保管料の足しにでもすればいいのに…と思いました。
午後1時半ならさすがに並んでないでしょ?ということで、帰りに西区の『中華そば 万楽』へ。このご時世に、未だラーメン一杯600円。ホント「ありがとう」です。
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生まれも育ちも名古屋ですが、入場料を払って名古屋城に入るのは小学校の遠足以来。現在、耐震性に問題ありということで天守は閉鎖されているので、平日ならばそれほど混雑していないだろうと、出かけてみました。見たいのは、櫓と石垣と堀。それから本丸御殿です。残念ながら、天守を見上げると例のアレも見えちゃうのですが…。
名古屋城の北側、名城公園内の道路にクルマを停めて、堀の外側から順番に眺めます。
西北隅櫓
まずは1619年建造の重要文化財西北隅櫓(せいほくすみやぐら)。名古屋城築城時に城下町ごと引っ越しをさせた清州越しの逸話の中に、清州城天守をこの櫓にした「清州城移築説」もあるようですが、この櫓が在りし日の清州城の姿だとすると、今現在の安土城ふう清州城はますます嘘くさいフェイクビルということになります。個人的にはこの清州越しよりも、犬山城のルーツかもしれない金山越しのほうが気になっています。
驚いたのは、この櫓の西側にある、改築が終わった名古屋キャッスルホテル。天守閣を模した外観が立派過ぎます。名古屋城よりも豪華なのはいかがなものかと。
立派な石垣を眺めながらグルリと歩いて、正門から西之丸へと入場します。観覧料500円は安すぎ。本丸御殿の観覧も含まれています。天守に入場できない今だけなのかな?
黒鉄門と矢穴
鉄板で補強するのは、閉ざした門に火をかけられて突破されることを防ぐため。もしくは、接ぎ木部分を隠して見た目を美しくするため。黒鉄門・鉄門(くろがねもん)というやつです。矢穴(やあな)は、巨岩を割って形を整えたり運びやすくするためにくさび(矢)を打ち込むための穴です。
天下普請・藩の刻印
石に刻まれたマークは、天下普請に駆り出された各藩の刻印。いたずら書きのようですが、苦労して遠方から運び込んだ石が他藩に盗まれないように、盗んで使ってもひと目でバレるようにするためのものです。親子連れが、一覧表を片手に刻印めぐりをして楽しんでいました。
清正公石曳きの像と東南隅櫓
曳かせた巨石の上に乗り、お祭り騒ぎで掛け声をかけていたという加藤清正の像と、1612年建造の重要文化財東南隅櫓(とうなんすみやぐら)。天守かと言うくらいに破風(はふ)が立派です。
萌える算木積
熊本城ほどの感動はなかったものの、名古屋城の石垣もかなりの見応えです。この櫓部分は打込接・乱積のようですが、実は明治の濃尾地震でやられ大正期にも崩落し、その後に再建したものだとか。石垣の角部分の、算木積(さんぎづみ)と反り(曲線)の美しさに萌えます。
さまざまな工法の石垣
補修や積み直しもあるでしょうが、天守や御殿などが火災や廃城で消えてしまっても、石垣だけは昔のままの姿で残されていることが多いですから、これだけ大規模な城郭の石垣なら、歩き回って見ていてもまったく飽きることがありません。
西南隅櫓
重要文化財西南隅櫓(せいなんすみやぐら)。石垣ごと崩落して宮内省が修復したため、破風(はふ)の丸瓦には徳川家の葵紋ではなく天皇家の菊の御紋が入れられています。実に面白い。
高く深い空堀
地震で崩壊してしまった熊本城ほどの規模ではありませんが、名古屋城でもあちらこちらで石垣補修が行われていました。空堀の底には、昔から鹿が住んでいます。
表二之門
鉄砲狭間(てっぽうさま)が並ぶ、1612年製の重要文化財表二之門(おもてにのもん)。土塀と石垣と鉄板で守りを固めた黒鉄門でしたが、無粋な補強の枠材が目立ってしまって残念です。
不明門と天守礎石
常に施錠されていて「開かずの門」と呼ばれた、大天守北側の不明門(ふめいのもん)。軒先には槍先のような忍び返しがズラリと並んでいます。同じく大天守の北側に並べられているのが、1945年の空襲で焼け落ちた天守の土台にあった礎石。鉄筋コンクリート天守を建てる際に、不要となったこの礎石をここに移動して元通りに並べたものだそうです。こどもがこの石でケンケンパッをして遊んでいました。清正公が見たら喜びそう?
天守台
加藤清正の指揮で積んだとされる、高さ約20mの天守台。熊本城の石垣ももう一度見たくなってくる美しさです。
連結天守
大天守と小天守、そして初めて拝んだ本丸御殿。大天守の右側は意図的に切ってます。だって…ねぇ~。
橋台
天守間を繋ぐ剣塀(つるぎべい)。忍び返しとして無数の剣がつき出ており、外から狙い撃ちもできないように橋の両側が塀で囲われています。
清正石
有名な清正石。でも、このエリアの石垣を担当したのは黒田長政なのだとか。ハテ??
西北隅櫓
御深井丸(おふけまる)から見た西北隅櫓。公開されることもあるらしく、ぜひ内部を見てみたいものです。
西之丸から眺める大天守。梅がきれいでした。
そしてラストの一枚は、コレ ↓
これがかの有名な、鉄筋コンクリート製名古屋城の外階段とエレベータータワー。城郭すべての景観や雰囲気を台無しにする破壊力です。城内をうろつく陳腐な武将隊や忍者コスプレのチンドン屋さんの姿と、西之丸の広場にズラリと並んだキッチンカー。そしてこのエレベーター。これら三つが名古屋城景観三悪です。これらがイヤでずっと名古屋城には立ち入りませんでした。たしかに当時の石高は雲泥の差かもしれませんが、こうしてどちらも訪れてみれば、石垣しかない岐阜の苗木城のほうが感動100倍です。生きてるうちに、木造復元天守の名古屋城を見たかったなぁ~。ムリだろうなぁ~。本丸御殿に設置されていた豪華な募金箱には寄付しておきましたけどね。
午前11時から歩き始めて、午後1時過ぎまで。けっこう時間がかかりました。遠方から訪れるなら、せめて2~3時間の余裕は必要かと思います。城には有料駐車場もありますが、名古屋城周辺の官庁街などには、土・日・休日の駐車禁止規制解除、平日でも時間帯規制の道路が数多くありますから、事前にストリートビュー等で標識を確かめておでかけください。もちろん、法定の禁止場所は停めちゃダメ。オススメは、道幅が広くて停めやすい名古屋城北側の外堀沿い、西北隅櫓の正面あたりです。
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