岩村城
RICOH GRⅢx
標高717m、高低差は180m。日本三大山城のひとつに数えられる岩村城の別名は、霧ヶ城。ツーリング中の通りすがりにいつも眺めていたのは『女城主』の幟旗でしたが、天守もないらしいし、(女の城主?なんぢゃ、そりぁ??)と興味もそそられず、なので今回が初登城です。ちなみに女城主の逸話を調べてみたら、武田と織田に挟まれてしまった山城の悲哀と逆さ磔という無残な最期でした。ついでに、あの森 蘭丸が、鬼武蔵と呼ばれ小牧・長久手の戦いで戦死した森 長可(もり ながよし)の弟だということを、今回のお勉強中に初めて知りました。
太鼓櫓と三重櫓跡
藩主の御殿があったとされる現・歴史資料館駐車場の立派な太鼓櫓と、畳橋が架けられていた三重櫓用に高く積まれた石垣。この三重櫓が、岩村城における実質的な天守だったそうです。
石 畳
大手道の藤坂から始まり、本丸までずっと急な坂道が続きます。斜めに敷かれていてとても登りにくく滑りやすい石畳を、息が切れる思いで休み休み登りましたが、国土交通省のサイトにあるPDF資料によれば、この石畳は昭和59年頃に復元されたものです。
石垣の見本市
野面積から切込接まで、時代ごとの異なる積み方が見られる石垣。水を含んでいるのか、内側の土が凍結したせいなのか、膨らんで崩落しそうな箇所もありました。反りの上端が、通常武者返しと呼ばれる垂直よりも、さらに反り返っているのが岩村城の特徴です。山城ならではの鈍角(しのぎかく)も、石垣の上に乗って足元で確かめることができます。
土岐門
土岐門(ときもん)の名の由来には諸説あるようですが、ここに設置されていた城門自体は、地元の徳祥寺山門として今も現存しているらしいので、ぜひ戻してほしいですね。門の内側に進むと、180度ターンのコンパクトな曲輪(くるわ)。ここから本丸まではほんの300mほどらしいのですが、とにかくしんどいです。すでにここまででも息が切れてゼェーゼェーしています。
八幡曲輪と霧ヶ井戸
曲輪(くるわ)の高台にある八幡神社は、跡地のみ。霧ヶ井戸は「敵襲の際、秘蔵の蛇の骨をこの井戸に投げ込むと深い霧がたちどころに山城を覆った」という伝説の井戸。実際、岩村城ゆかりのどこぞで大切に保管されていた蛇の骨が発見されたのだとか。ところで岐阜名水50選認定とありますが、コレ、飲めますかね?
本丸の六段壁
岩村城の逸話として有名なのが女城主だとしたら、岩村城ならではの特徴として有名なのが六段壁。山の上にある本丸の石垣が崩れてくるので、その下部を支えの石垣で覆い始めたら、繰り返しているうちにとうとう六段にもなってしまった石垣です。この石垣の正面にあった月見櫓と六段壁の間には渡り廊下が架けられていたそうなので、あえて大掛かりな補修をせず、ちょこちょこと手当てしていたのかもしれません。上から覗きこむと、犬走りにあたる部分がまるで山奥の急峻地にある棚田のようです。
埋 門
三浦先生が「実に不思議だ」と解説されていた、岩村城の埋門(うずみもん)。二の丸から入り本丸に向かって何度も直角に折れ曲がる構造で、上部は櫓が覆っていたらしく、しかも門がその前後に四か所もあることから、「内部は暗渠のように真っ暗だったはずだがその理由はわからない」と。
本 丸
苗木城ほどの眺望はありませんが、ここもなかなかの絶景です。本丸に天守はなく、代わりにいくつかの櫓が建てられていたようです。本丸にも、矢穴らしきものが残る大量の石垣。これだけの石を、いったいどこから運んできたのでしょうか。
そして、隅っこには昇竜の井戸。こんな場所で水が湧くの??と思いますが、まずはこの井戸を掘ってみてからの縄張だったと思われます。
帰りの石畳
本丸から下る帰り道。滑りやすく傾斜のついた石畳のせいで、下りもしんどいです。腰と膝にきます。プチウォーキングのつもりだったのに、かなりの疲労度でした。資料館脇の道路をさらに奥へと進むと、本丸直近の出丸広場駐車場までクルマで行くことが可能ですから、「とにかく歩きたくない」という人はここを利用するのもアリかもしれません。
| 固定リンク




























































































































































































